第三十話 瞬間の人生

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 フランソワ・トリュフォーは『野性の少年』(1970)で撮影監督にはじめてネストール・アルメンドロスを起用した。それまでの作品は主にラウール・クタールが撮影監督を務めている。『ピアニストを撃て』(1960)も『柔らかい肌』(1964)もクタールのキャメラである。『野性の少年』にアルメンドロスのキャメラが必要なことは見ればすぐ分かる。 例えば、風にそよぐ木のカットなどは、人間の視点から独立して自然が自らを表現しているかのように映し出される。これが素晴らしい。この作品で注目すべきことがもうひとつある。 カットのつなぎでアイリスイン・アイリスアウトを使用していることである。瞳(アイリス)を閉じるようにカットが暗くなって終わる、サイレント映画によくあるあの技法である。 フェイドイン・フェイドアウトという類似の技法があるが、こちらの方がモダンな感じがする。ひとつのカットが真っ暗になって終わり、また次のカットが始まる。二つのカットはいわば闇によって隔てられている。 映画がカットという生の断片をつないで構成されているということを強く意識させる技法である。こういう技法が強烈にリアリティーを感じさせる場合がある。 登場人物の生活に連続性や発展性がなく、その日その日、その瞬間その瞬間を生きているような物語はこの技法が効果をあらわす。生の断片が無の中に消え、また別の生の断片が始まる。そこには別に一貫性がない。 人生につまずいた男の物語を語るにはもってこいの技法である。『チャオ・パンタン』(クロード・ベリ 1983)はそれが成功した作品である。 それに比べると『野性の少年』のアイリスは、つねに新しい一日が始まるという積極的な解釈で使用されていた。『チャオ・パンタン』で私の好きなカットがある。 息子を自殺で亡くした元刑事(コリューシュ)が、夜勤明けに酒を飲むカットである。何ということもないカットだが、妙に味のあるカットであった。


チャオ・パンタン Tchao Pantin

監督:クロード・ベリ
キャスト:コリュシュ【ランベール】、リシャール・アンコニナ【ベンスサン】
     アニエス・ソラル【ローラ】
1983年/フランス/100分

ガソリンスタンドの夜間給油係をしている中年男ランベールはある若者と知り合い、親子関係にも似た淡い友情を育んでゆく。 だが、麻薬の売人だった若者は不手際からボスに睨まれ殺されてしまう。友を失い、復讐のため仇を捜し始めるランベール。 彼にはそうしなくてはならない理由があった…。


第二十九話 赤いコートのナタリー・ウッド

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 不良少年や不良少女を題材にした作品がある。古典的な作品としては『理由なき反抗』(ニコラス・レイ 1955)や『ウェストサイド物語』(ロバート・ワイズ 1961)がすぐ思い浮かぶ。『ランブルフィッシュ』(フランシス・コッポラ 1983)のような異色の作品もある。『俺たちに明日はない』(アーサー・ペン 1967)もこのジャンルに入るかもしれない。 さて私の説によれば、映画における不良少女というのはこわれゆく女の一種である。この点を最も明瞭に体現しているのが『理由なき反抗』のナタリー・ウッドであろう。 いまにも崩れ落ちそうな心を仲間との逸脱行動によってかろうじて支えているという感じをナタリー・ウッドの顔が表現している。この支えがなければ、つねに他人を睨みつけるようなその眼からはすぐに涙がこぼれ落ちるであろう。 実際、『理由なき反抗』でのナタリー・ウッドはファースト・カットから泣いている。赤いコートに赤い口紅という強烈な印象の外見に反してまるで救いを求めるように泣いているがゆえに、その心の二面的なあり様がいっそうはっきりと見える。 このような悲しみを秘めた強い眼差しは不良少女というこわれゆく女に特有のものである。ハリウッドは伝統的にこのような不良少女の顔を持っている。 ナタリー・ウッドの顔はラナ・ターナーやアイダ・ルピノの系譜に連なる不良少女の顔なのである。 彼女達はみな強い眼差しの下に崩れ落ちそうな心を隠し持っていた。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(テイ・ガーネット 1946)のラナ・ターナーも、『ハイ・シェラ』(ラウール・ウォルシュ 1941)のアイダ・ルピノも、社会的な逸脱行動へと逃げ込まねばとたんに崩壊していく兆しを抱え込んでいる。『理由なき反抗』にはキャメラのフレームが不意に傾くカットが二回ある。もちろん意図されたものである。ふとしたきっかけで崩壊してしまう世界がそこにある。


理由なき反抗 Rebel Without a Cause

監督:ニコラス・レイ
キャスト:ジェームズ・ディーン【ジム・スターク】、ナタリー・ウッド【ジュディ】
     サル・ミネオ【プレイトー】
1955年/アメリカ/111分

越してきたばかりの少年ジムは泥酔して警察に保護され、警察署でジュディとプレイトーと知り合い意気投合。 初登校の日、ジムは不良グループのリーダー、バズに目をつけられてしまい、崖に向かって車を走らせるチキン・レースを挑まれる…。 ジェームズ・ディーンが、50年代のティーン・エージャーが持つ大人の社会への不満や苛立ちを自らのイメージをダブらせながら繊細に表現して彼の人気を決定づけた作品。


第二十八話 ザンパノが来た

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 イタリア映画におけるネオリアリスモといえば、ロッセリーニの『無防備都市』(1945)やデ=シーカの『自転車泥棒』(1948)などから始まる新しい映画の流れを指す言葉である。ヴィスコンティ初期の『揺れる大地』(1948)もこの新しい流れの中に位置づけられるであろう。 フェリーニの『道』(1954)は時期的にはこれらの作品から少し後になるが、やはりネオリアリスモを代表する作品である。大道芸人のザンパノ(アンソニー・クィン)は、前々から虫の好かない男だと思っていた綱渡り芸人(リチャード・ベースハート)と暴力沙汰をおこして警察に逮捕されるが、その仕返しに田舎道でたまたま出くわしたこの芸人をいたぶり、力余って殴り殺してしまう。 その事件をきっかけに連れのジェルソミーナがこわれていく。アンソニー・クィンの大道芸が見物だが、客を集めるために路地で太鼓を叩く。かけ声は ho arrivato Zanpano(ザンパノが来た)である。 ジェルソミーナが仕込まれるのはまずこの太鼓とかけ声だった。どさ回り芸人の物語だからロードームービーである。場面のつなぎには道具を積んだオート三輪を運転するアンソニー・クィンを前から撮ったカットがかならず入る。 このカットによって物語が再開し、さあ次はどんなことが起きるかという興味をもたらすわけである。だから技術的に重要なカットである。ザンパノは気が少し変になって使い物にならなくなったジェルソミーナを置き去りにしてしまう。 映画のラストで、この女が浮浪者になり拾われた家で亡くなったことをザンパノは知る。したがって、この映画は女がこわれていく過程をじつは途中までしか見せていない。しかし、それで十分である。狂った女を延々と見せるのがリアリスモなのではない。むしろ、こわれゆく女とはひとの眼には見えない存在であるということが強烈に胸を突いてくるラストである。


道 La Strada

監督:フェデリコ・フェリーニ
キャスト:ジュリエッタ・マシーナ【ジェルソミーナ】、アンソニー・クィン【ザンパノ】
     リチャード・ベイスハート【綱渡り芸人/キ印】
1954年/イタリア/104分

旅芸人のザンパノは芸の手伝いをさせるため、貧しい家の娘ジェルソミーナをタダ同然で買い取った。粗野で暴力を振るうザンパノと、頭が弱いが心の素直なジェルソミーナは一緒に旅に出る。 1956年のアカデミー外国語映画賞を受賞した、自他共に認めるフェリーニの代表作の一つ。音楽は、フェデリコ・フェリーニ監督作品を数多く手掛けたニーノ・ロータが作曲した。


第二十七話 ダスティン・ホフマンの疾走

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ロベルト・ロッセリーニの『殺人カメラ』(1948)は面白い作品だった。町の写真屋がそのカメラで人物を撮影し、店に帰って現像すると本人が死んでしまうという不思議なカメラの話である。このアイデアも面白いが、映画として面白いのは本当に本人が死んだかどうかを写真屋が確認しにいく場面である。 この写真屋の小男が現場に走る。路地を抜け、階段を上り、とにかく走る。それが繰返されるうちにこの男がまた走り出すのがはやく見たくなってくる。ダスティン・ホフマンの主演作品に『マラソンマン』(ジョン・シュレシンジャー 1976)という作品がある。 ジャンルとしては政治的な陰謀が絡むミステリーで、長距離ランナーのダスティン・ホフマンが事件に巻き込まれるのである。ダスティン・ホフマンが練習で走るシーンもある。 ダスティン・ホフマンという役者はなぜか走ることがよく似合う。『卒業』(マイク・ニコルズ 1967)のラスト・シーンではキャサリン・ロスの結婚式が行なわれている教会へ走っていった。『クレイマー、クレイマー』(ロバート・ベントン 1979)ではジャングルジムから落ちて顔に怪我をした息子を抱きかかえて病院に走った。『クレイマー、クレイマー』などは、奥さんが急に家出したので息子の世話で昇進をふいにした上に会社を解雇されたところへ、奥さんが高給取りになって帰ってきて裁判で争った挙げ句子供をとられるという話で、これだけ聞けばどう見ても人生につまずいた男の物語である。ところがそういう物語にならないのはダスティン・ホフマンだからである。 どう見てもつまずいているのに本人はいっこうにつまずいたと思っていない、そういう不屈の意志がダスティン・ホフマンの持ち味である。では、意志というものを映画的に見せる技法は何か。技法も何もない。その男を走らせるに限る。ダスティン・ホフマンを見て私がいつも感じることである。


クレイマー、クレイマー Kramer vs. Kramer

監督:ロバート・ベントン
キャスト:ダスティン・ホフマン【テッド・クレイマー】、メリル・ストリープ【ジョアンナ・クレイマー】
     ジャスティン・ヘンリー【ビリー・クレイマー】
1979年/アメリカ/105分

舞台はニューヨーク・マンハッタン。 仕事第一のテッドは、家事と育児を妻のジョアンナに全て押し付けていた。思いつめたジョアンナは一人息子ビリーを置いて家を出ていき、テッドは生活の転換を余儀なくされる。 始めはぎくしゃくしていた父子の関係が、次第にお互いがなくてはならない、愛情あふれるものに変化していく。第52回アカデミー賞作品賞ならびに第37回ゴールデングローブ賞 ドラマ部門作品賞受賞作品。


第二十六話 こわれゆく少女

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

グリフィスの『散り行く花』(1919)はやはりサイレント映画を代表する作品であろう。原題は BROKEN BLOSSOMS である。これを知っていれば、ジム・ジャームッシュの『ブロークン・フラワーズ』(2005)がグリフィスへの、いや映画へのオマージュであることが分かる。『散り行く花』のリリアン・ギッシュはこわれゆく女というより、むしろこわれゆく少女である。 ボクシングを職業とする父親(ドナルド・クリスプ)と二人暮らしの少女は、気性の荒い父親の叱責を恐れて家事をこなす日々を送る。少女の哀れさは映画の観客が好む題材である。では、こわれゆく少女という微妙な存在をいかに視覚的に見せていくのであろうか。 グリフィスはリリアン・ギッシュの顔の表情をフルに使った。サイレント作品とはいえ『散り行く花』にはクローズ・アップが多い。これと対照的に、少女を見る大人の表情でこわれゆく少女を表象する技法がある。 相米慎二が『お引越し』で使用した技法である。少女の心境を観客の評価に委ねてしまうのではなく、映画の中での大人の表情によって間接的に観客に提示するという技法である。この技法を得意とするのはじつはイーストウッドで、『恐怖のメロディ』(1971)などはこの技法で押している。 イーストウッドにつきまとうストーカーの女(ジェシカ・ウォルター)の言動の異常性がイーストウッドの表情から読み取れるようにカットが組んであるわけである。これぞ玄人の仕事である。『お引越し』では父親の中井貴一の顔が、夫婦の別居で母親の桜田淳子と暮らすことになった一人娘の田畑智子をこわれゆく少女として表象している。 中井貴一はこの作品ではつねに苦い顔をしているが、この顔は別居してでも一人で生きたいという身勝手を通しながら、でも娘のことは心配であるという痛々しくも矛盾した顔である。 田畑智子はといえば、たぶんごく普通にキャメラの前に立っていたに違いない。


散り行く花 BROKEN BLOSSOMS

監督:D・W・グリフィス
キャスト:リリアン・ギッシュ【ルーシー・バロウズ】、リチャード・バーセルメス【チェン・ハン】
     ジョン・ギャヴィン【バトリング・バロウズ】
1919年/アメリカ/90分

19世紀ロンドンのスラム街、少女は酒飲みのボクサーである父親バトリングの暴力におびえて家を飛び出す。夢に挫折した中国人の若者チェンとの間に純愛が芽生え、烈火のように怒った父親にルーシーは力ずくで連れ戻されてしまう。 サイレント時代のアメリカ映画を象徴する巨匠グリフィスと人気女優ギッシュの傑作。痛ましくも純粋な愛の美しさに泣く悲劇。


第二十五話 ジャネット・リーの中古車

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ニューヨークやロサンゼルスのような大都会をヘリコプター撮影で俯瞰し、次いで物語の発端となる事件の現場のカットへつなぐというオープニングは、イーストウッドのトレードマークのようになっている。『ミスティック・リバー』(2003)はこれがとりわけ見事だった。 何百万という人口を持つ大都市の中で個人の存在など匿名性の中に埋もれる塵のようなものにすぎないということが俯瞰によって示されているがゆえに、個人の苦しみがいっそう深刻な意味を持つからである。 どれほど深い苦しみであれ、そんなものは誰も関心をもたない何百万分の一の存在にすぎない。この認識が苦しみを軽減するのではなくむしろ深めるのである。 ところで、この形式のオープニングはヒッチコックの『サイコ』にまで遡ることができる。アリゾナ州フェニックスの中心部を俯瞰したキャメラはそのままホテルの窓から部屋の中へとワンカットで入っていく。 ジョン・ギャビンとジャネット・リーの情事のシーンだが、冒頭の俯瞰撮影のせいで彼らの行為が何とも卑小なものであることを観客は見る。また同様に、この男との生活のために会社の金を持ち逃げして車を走らせるジャネット・リーの行為が、いかにも三面記事的な愚かな行為に見えてくる。 無論本人は必死だが、その必死さが極端に相対化され、ほとんど意味を持たないものになってしまっているのだ。映画の前半を占めるジャネット・リーの逃亡劇は、主観的には強烈な情念が相対的にはごく卑小なものにすぎないという構図の中で成立している。 簡単にいうと、端から見れば馬鹿馬鹿しいようなことにのめり込んでいるわけである。女がこわれていく過程をこういう形で見せていくのはやはりヒッチコックならではである。 その必要もないのに中古車店で車を買い替えるシーンは、この明確な構図の中ではじめて成立する。ヒッチコックによる申し分のないカット割りが楽しめるシーンである。


サイコ Psycho

監督:アルフレッド・ヒッチコック
キャスト:アンソニー・パーキンス【ノーマン・ベイツ】、ジャネット・リー【マリオン・クレイン】
     ジョン・ギャヴィン【サム・ルーミス】、ヴェラ・マイルズ【ライラ・クレイン】
1960年/アメリカ/105分

結婚をねだるマリオンに応じない恋人サム。ある日マリオンは仕事で預かった金を横領。逃走中のモーテルで若き経営者ノーマンと会話を重ねるうち自首を決意するが、 独りになったマリオンに、突然侵入してきた影が襲いかかった。サイコ・サスペンス映画の元祖であり、代表作。ヒッチコックがマリオンの事務所の外でウェスタンハットの通行人として登場。


第二十四話 カプリ島のBB

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『軽蔑』(1963)はジャン=リュック・ゴダールの六本目の長編作品である。アルベルト・モラヴィア原作。ブリジット・バルドー主演。ブリジット・バルドーはミシェル・ピコリの若妻の役である。 ミシェル・ピコリは劇作家だが、映画の脚本の仕事を請負う。金になるからである。夫婦生活のために新しく購入したマンションもまだ払いが残っている。だから、二人の生活のために気乗りのしない仕事をあえてしているといってもよい。 ところが、それが妻の気に食わないのだ。なぜなのかは夫には理解できない。問い質しても彼が納得する答えは得られず、かえって妻のさらなる嫌悪を駆り立てるのみである...。そう、これは夫婦の物語である。 こういう関係の中で女はこわれていくということを観客は明瞭に見る。そして、その物語が映画作りの現場での確執を背景に進んでいく。アメリカ人のプロデューサー、プロコシュ(ジャック・パランス)と監督(フリッツ・ラング本人)との確執はとくに見物である。 それにしても、ブリジット・バルドーにこういう役を当てるということを、当時いったい誰が考えたであろうか。しかし、実際に映画を見るとブリジット・バルドーほどこういう役に適した女優は存在しないということが分かる。 かつて愛していた男が急に情けない存在に見えてくると、その男を愛している自分も嫌になってくるので、男への愛を否定することで何とか自分の存在を肯定しようとするがうまくいかない。 うまくいかないからもっと不機嫌に男を避けるようになる。その理由は男には皆目分からない。下手にご機嫌を取ろうとするとますます嫌われる。ほら、ブリジット・バルドーにぴったりである。 ロケ地のカプリ島では、そういう夫婦の問題とは関わりなく映画の撮影が進んでいく。フリッツ・ラングの監督姿がすばらしい。充実した60年代ゴダール作品の中でもひときわ異色の作品である。


軽蔑 Le Mepris

監督:ジャン=リュック・ゴダール
キャスト:ブリジット・バルドー【カミーユ・ジャヴァル】、ミシェル・ピコリ【ポール・ジャヴァル】
     フリッツ・ラング【フリッツ・ラング】、ジャック・パランス【ジェレミー・プロコシュ】
1963年/フランス・イタリア/102分

劇作家ポールは、プロデューサーのプロコシュからフリッツ・ラング作品の脚本修正の依頼を受ける。意に染まぬ仕事を引き受けた夫に、妻カミーユの愛情は冷めてゆく…。 当時、2年前に結婚したばかりの妻アンナ・カリーナとの愛の問題に苦悩したゴダールが、自己を投影し、愛の不可能性を描いた作品。


第二十三話 アメリカ映画のアルメンドロス

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『プレイス・イン・ザ・ハート』(ロバート・ベントン1984)は私の好きな作品のひとつである。家族のつながりというアメリカ映画の古典的な主題を取り扱っているが、カットのつなぎは古典的なアメリカ映画のように速くない。 むしろワンカットが長くなっている。映画としてはその方がモダンである。撮影監督はネストール・アルメンドロス。フランスでロメールやトリュフォーの作品を撮っていたキャメラマンである。 アルメンドロスのキャメラによって、自然は突如としてその存在を顕す。例えば『モード家の一夜』(エリック・ロメール 1968)での雪の積もった工場地帯の夜。それは、まるで今そこに存在し始めたかのようにスクリーンに映し出される。 観客は、かつて降った雪の技術的な再現ではなく、今降っている雪をスクリーン上に見る。そういう感じである。無論、こんな言い方は論理になっていない。しかし、アルメンドロスのキャメラには人にこういう無理をいわせるような新鮮さがある。 1978年にトリュフォーの作品を二本撮った(『緑色の部屋』『逃げ去る恋』)後は、しばらくアメリカ映画の時代が続く。『天国の日々』(テレンス・マリック 1978)、『クレイマー、クレイマー』(ロバート・ベントン 1979)、『青い珊瑚礁』(ランダル・クレイザー 1980)、『ソフィーの選択』(アラン・パクラ 1982)。『天国の日々』でリチャード・ギアの恋人を演じたブルック・アダムズはこわれゆく女だった。 チンピラ気質の労働者リチャード・ギアは農場主のサム・シェパードに若いブルック・アダムズを差し出す。そうしておいて自分はこの女との関係を持ち続ける。そういう理不尽を承知することで、女はこわれてゆくだろう。 その緩慢な崩壊の過程を示すカットがすばらしい。とりわけ、夜の農場のカットなどは今はじめて夜が来たかのように映し出される。現在進行形の崩壊がそこにある。


天国の日々 DAYS OF HEAVEN

監督:テレンス・マリック
キャスト:リチャード・ギア【ビル】、ブルック・アダムス【アビー】
     サム・シェパード【チャック】
1978年/アメリカ/95分

シカゴから放浪の旅に出るビリーと妹リンダ、ビリーの恋人アビーの3人はテキサスの農場で麦刈り人夫の職につく。若き農場主チャックはアビーを見初め、彼の命が長くない事を知ったビリーは、楽をしようとアビーに形だけの結婚を促す……。 20世紀初頭を舞台に、雇われた労働者達の姿と人間の弱さと脆さを描く。ネストール・アルメンドロスによる徹底したリアリスティックで美しい映像が高く評価されている。


第二十二話 ボギーの場所で

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『カサブランカ』(マイケル・カーティス 1942)はハンフリー・ボガードという役者のイメージを決定づけた作品であろう。政治的に中立の立場をとる個人主義者、信頼する人間とそうでない人間とを峻別する態度、クールなようですぐカッとなる短気な性格、そして愛する女への執着...。 しかし、もうひとつ見落としてはならないのはボギーの場所である。「リックのカフェ」の二階のオフィスには大きめのデスクがあり、その向こうに側に椅子が置かれている。 その椅子に座るとデスクをはさんで部屋のドアがすぐ正面に見え、入ってくる人間と目が合うようになっている。ここがボギーの場所である。デスクは、別に書き物をするためのものではない。 むしろ敵と向かい合うのに必要な仕切りである。したがって、例えば『孤独な場所で』(ニコラス・レイ 1950)の場合にはデスクと椅子がこういう配置になっていない。 この作品のボギーは脚本家で、デスクはそれ本来の役割を与えられているからである。同じくニコラス・レイと組んだ作品『暗黒への転落』(1949)では弁護士の役だが、弁護士事務所のデスクと椅子がここではカサブランカ式にドアを向いて置かれていることが目につく。 それを意識させるようなカットがいくつもあるからである。イタリア系の母子家庭の少年(ジョン・デレク)が少年院を出た後人生につまずき続ける物語で、ボギーはその少年の弁護人である。 ジョン・デレクは『理由なき反抗』(ニコラス・レイ 1955)のサル・ミネオと同じタイプの、情緒不安定な感じの美男子である。結局この少年は警官殺しで死刑になる。ボギーはそのことを深く悔いる。 個人的に関わりのあったこの少年に対し、真摯な救いの手を差し伸べることがついにできなかったからである。弁護士事務所の重厚なデスクが少年との間に無用の仕切りを作っていたように、私には見える。 ボギーの場所が珍しく否定的な意味を帯びた作品である。


カサブランカ Casablanca

監督:マイケル・カーティス
キャスト:ハンフリー・ボガート【リック・ブレイン】
     イングリット・バーグマン【イルザ・ラント】
1942年/アメリカ/102分

1941年、モロッコの都市カサブランカ。アメリカ人のリックは、パリが陥落する前に理由を告げずに去った恋人イルザと、経営する酒場「カフェ・アメリカン」で偶然の再会を果たす。 パリの思い出である『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』が切なく流れる。1989年に始まったアメリカ国立フィルム登録簿で最初にセレクトされた25本の1本で、65年経てもなお不滅の人気を誇るロマンス・フィルムである。


第二十一話 大杉漣の車椅子

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画では椅子や机などの家具調度は重要なものである。構図/逆構図のような古典的なカットつなぎは、向き合った二人の人物をとらえるのに適しているが、そういう位置に人物を配置するには椅子や机がなければならない。 したがって、映画における椅子とは基本的に人物の向きを固定させるための道具である。向きが固定されているということは、カットをつなぐ際のポイントである視線が固定できるということを意味する。 ここから見れば、車椅子という道具の映画的な機能は明瞭であろう。ヒッチコックは『裏窓』(1954)でジェームス・スチュワートを車椅子に座らせることで視線の自由を与えたのである。 いうまでもなく『裏窓』はいわゆるのぞき(窃視症)の映画なのだ。映画において、車椅子に座る人物とはものを観察する人物でなければならない。『HANA-BI』(北野武 1997)で大杉漣が絵を描くのは、『裏窓』のジェームス・スチュワートが望遠レンズを覗くのと同様に映画的な必然である。 ただ、注目すべき点は、ヒッチコックにおける車椅子がもっぱらその機能によって使用されていたのに対し、北野監督はこの道具の情緒的な意味をも活用していることである。 職務中に撃たれて警察を退職し妻子にも逃げられた中年男の哀れさは車椅子によって眼に見えるものになる。この年齢で人生につまずいたらまずやり直すことはできない。 大杉漣の住む借家には、高価ではないが品のよい家具調度がよく整理されて置かれている。それでいっそう哀れである。こういう独身男の部屋は乱雑に散らかっていた方がリアルであるというような誤ったセンスで映画を撮らないのがこの監督である。『菊次郎の夏』(1999)もそうである。 母方の祖母の家から小学校に通うあの大人しい少年が一人で食べる昼食のカットは、部屋がきれいに片づいているがゆえにいっそう哀れであった。美術監督はどちらも磯田典宏である。


HANA-BI

監督:北野 武
キャスト:ビートたけし【西 佳敬】 岸本加世子【西 美幸】
     大杉漣【堀部泰助】
1997年/日本/118分

妻や同僚の生と死、そして妻との逃亡を敢行する一人の孤独な刑事の人生模様を描く。第54回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作品。金獅子賞を受賞した日本映画は「無法松の一生」以来40年ぶり。 北野の代表作で、日本を含め世界各国で数々の賞を受賞した。


第二十話 間違えられた男の妻

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『間違えられた男』(アルフレッド・ヒッチコック1956)は私の好きな作品のひとつである。ところが、監督のヒッチコック本人はあまり気に入っていないらしいのである。『ヒッチコック/トリュフォー映画術』の中でそういうことをいっている。 しかし本人の意見はともかく、見どころは色々とある。まず、始まりの10分ほどがすばらしい。高級クラブで演奏するバンドのベーシストであるヘンリー・フォンダがほとんど明け方に仕事を終えてから地下鉄を使って帰宅するまでを丁寧に見せていくカットのつなぎには非の打ち所がない。 ヘンリー・フォンダが帰宅すると、すぐさま家庭のトラブルが待ち構えている。妻のヴェラ・マイルズが歯の治療でまた金がいるというのである。ついこの前にも家族旅行のために借金したばかりなのに。 主人(ヘンリー・フォンダ)は高給取りではない。妻も別に浪費家というわけではないが、意に反してお金が出て行ってしまう生活になっている。どこかで歯車が狂っていて、それを修復できないがゆえに精神的な疲労がたまっている、そういう主婦である。 ヘンリー・フォンダは治療費を工面するために保険会社を訪れるが、そこで真犯人に「間違えられ」る。ここからヴェラ・マイルズは本格的にこわれてゆくのである。この作品と同じ年にヴェラ・マイルズは『捜索者』(ジョン・フォード 1956)にも出演している。 ジェフリー・ハンターの花嫁役だが、どう見ても男を尻に敷くタイプの女である。ヴェラ・マイルズにはむしろこういう気丈な女の役が合う。実際、ヒッチコックも『サイコ』(1960)では、失踪した妹(ジャネット・リー)の恋人(ジョン・ギャビン)を引っ張って犯人探しをする姉の役に使っている。 そう考えると、『間違えられた男』のヴェラ・マイルズには少し無理があっただろうか。ヒッチコックの不満もこの点に起因しているのかもしれない。


間違えられた男 The Wrong Man

監督: アルフレッド・ヒッチコック
キャスト:ヘンリー・フォンダ【マニー・バレストレロ】
     ヴェラ・マイルズ【ローズ・バレストレロ】
1956年/アメリカ/105分

妻の歯の治療代を工面すべく保険会社へと赴いたマニー。だが、以前そこで強盗を働いた男と彼が瓜二つだったため、窓口係が警察に通報。マニーは連行されてしまう。 1953年に実際に起きた事件の状況をそのまま踏襲して描写。大々的なNYロケを敢行し、誤認逮捕された男の悲劇をリアルに描き出した傑作。


第十九話 ビデオテープの証言

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『ブリンクス』(ウィリアム・フリードキン 1978)という作品があった。米国で1950年に実際に起こったブリンクス銀行現金強奪事件にもとづくものである。私は小学生のときに友達と見に行ったが、まあ小学生が見ても分かる映画である。 主犯のトニー・ピノを演じたのはピーター・フォーク、『刑事コロンボ』で人気絶頂のころである。他にはピーター・ボイルやウォレン・オーツなどが犯人グループの役で出ている。中々の顔ぶれである。 さらに、ピーター・フォークのかみさんの役で出てくるのが私の大好きなジーナ・ローランズであった。ピーター・フォークとジーナ・ローランズはジョン・カサヴェテスの映画でこれ以前にも共演している。『こわれゆく女』(1974)と『オープニング・ナイト』(1978)が二人の共演である。 ところが、この二本にはさまれてじつはもう一本共演作がある。『刑事コロンボ』第30話「ビデオテープの証言」(1975)である。大会社の前社長(故人)の娘がジーナ・ローランズで、これがまさにこわれゆく女であった。 娘婿のオスカー・ウェルナーが口うるさい姑(前社長夫人、妻=ジーナ・ローランズの母)を殺害するが、防犯ビデオテープを使って完璧なアリバイを作る。コロンボがこのアリバイを崩すといういつものストーリーである。 ジーナ・ローランズは車椅子で、豪邸の階段にも専用の電動式レールが取り付けてある。それに乗って二階の寝室に上って行く姿を下から撮ったカットがいかにも哀れである。 自分の夫が母親を殺したことを知らないのだから。例によってしつこく食い下がるコロンボに丁寧に対応する態度も何か哀れである。最後にコロンボがアリバイを解いてみせたところで、とうとうジーナ・ローランズは車椅子に座ったまま泣き崩れる。 もう35年ほど前の作品だが、別に私は記憶力のよい方ではない。ピーター・フォーク追悼番組で最近見たばかりなのである。


刑事コロンボ/ビデオテープの証言 Columbo/Playback

監督: バーナード・L・コワルスキー
キャスト:ピーター・フォーク【刑事コロンボ】
     ジーナ・ローランズ【エリザベス・ヴァン・ウィック】
1975年/アメリカ/73分

エレクトロニクス会社の社長ハロルドは、娘婿でありながら妻が疎ましくてならない。義母マーガレットはそんなハロルドを調査、クビにする決心をするが それを知ったハロルドは、マーガレットを亡き者にしようと企む。厳重な監視システムの盲点をついた犯行に、コロンボは犯人を勘づくのだが……。


第十八話 白いスーツのラナ・ターナー

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 男が人生につまずく原因は、映画においては第一に女である。男をつまずかせる女はファム・ファタールと呼ばれる。例えば『上海から来た女』(オーソン・ウェルズ 1947)のリタ・ヘイワースはそれである。 オーソン・ウェルズがリタ・ヘイワースに出会うファースト・シーンはやはり見事なものだった。この映画のリタ・ヘイワースは、自分から男に罠を仕掛けてはいない。むしろ男の方が一方的にのぼせ上がってトラブルに巻き込まれていく感じである。 このような関係は例外ではない。ファム・ファタールと呼ばれる女達は、意図的かつ計画的に男を犯罪に引きずり込む悪女ではないのだ。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(テイ・ガーネット 1946)のラナ・ターナーも同様である。 かなり年上の夫に保険金をかけ、それよりも若くタフな男に殺人を持ちかけるという話だけきけばどう見ても悪女なのだが、じつはそうではない。むしろ、男への愛の証明として保険金殺人を犯してしまうというのが正しい。 黒い衣装は悪女、それに対し白い衣装は清純な女という映画の記号法から見れば、この点がもっとはっきりする。ラナ・ターナーの衣装はずっと白なのだ。つまり、ファム・ファタールとは、犯罪をとおしてしか男を愛せないこわれ行く女なのである。 では、『白いドレスの女』(ローレンス・カスダン 1981)のキャスリン・ターナーはどうであろうか。意図的かつ計画的な保険金殺人にまんまと成功してしまい、男は利用されただけである。 これではファム・ファタールにならない。それゆえ彼女が白いドレスを着ていることは、本当はおかしい。このことが意味するのは、古典的な映画の記号法がもはや機能していないということである。 そしてそれはまた、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のようなこわれゆく女の物語が、現代の観客にはもはや理解不可能なものになってしまったということを意味するのである。


郵便配達は二度ベルを鳴らす The Postman Always Rings Twice

監督: テイ・ガーネット
キャスト:ジョン・ガーフィールド【フランク・チェンバース】
     ラナ・ターナー【コーラ・スミス】
1946年/アメリカ/113分

米国カリフォルニア。流れ者のフランクはニックという男と知り合い彼のドライブインで働き始めるが、やがて彼の美しく多情な妻コーラと不倫関係に。
ふたりはニックに多額の保険金を掛け殺害する計画を練るが…。ラナ・ターナーが魅惑的な悪女を演じる、サスペンスの傑作!


第十七話 ウォルター・マソーを讃えて

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 野球映画というジャンルがある。ベースボールというものが盛んな米国と日本にのみ存在するジャンルである。少年野球などはいかにも映画向きの題材であろう。『がんばれ!ベアーズ』(マイケル・リッチー 1976)は少年野球映画の傑作である。 弱いチームがだんだん強くなって最後は決勝戦を戦うという物語である。『ペーパームーン』(ピーター・ボグダノビッチ 1973)でアカデミー賞をとったテータム・オニールが主要な子役キャストである。 このチームの監督がウォルター・マソーで、バターメーカーという変な名前である。元プロ野球選手(投手)だが、現在は自家用プールの清掃業で生計を立てる中年男。昼間から缶ビールにバーボンを混ぜて飲んでいる。 ごく些細なことで人生につまずき、以来酒が手放せなくなったというような感じである。ウォルター・マソーは、演技というよりもむしろその男本人であるように見えた。この映画の三年前にはドン・シーゲルの傑作『突破口』(1973)に主演している。 農薬散布業を隠れ蓑にして地方の小銀行を狙う泥棒稼業の男で、名前はチャーリー・バリック。映画の原題もこの名前、チャーリー・バリックである。盗み出した金がマフィアの金であったことから、物語が動き始める。 ドン・シーゲルの活劇である。私の好みでいえば、『ダーティハリー』(同監督 1971)よりもこの作品の方が活劇の要素が豊富で面白い。ところでこのチャーリー・バリックという男が決してしくじらない男なのである。 酒もタバコもやらず、かわりに牛乳を飲んでガムを噛んでいる。この男だけは間違ってもつまずくことがない、という感じである。まるでウォルター・マソーがチャーリー・バリック本人であるかのように動いている。 いや、というより、ウォルター・マソー本人がこれらの作品で二人の異なった男を生きたのである。真の名優にのみ可能なことである。


突破口! Charley Varrick

監督: ドン・シーゲル
キャスト:ウォルター・マッソー【チャーリー・バリック】
     ジョー・ドン・ベイカー【モリー】
1973年/アメリカ/111分

悪党チャーリーと数名の仲間がニューメキシコにある銀行を襲撃。銃撃戦の末、大金を奪うが、やがてチャーリーはその金がマフィアの隠し金だったことに気づく。金の奪還を目論むマフィアのボスは凄腕の殺し屋モリーを雇い、追跡を開始。 モリーは高飛びの準備を進めていたチャーリーに迫るが……。ワル同士の対決をスリリングに描いた犯罪サスペンス。


第十六話 トスカーナのジュリエット・ビノシュ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画には車という道具がよく使われる。ロードムービーは車がなければ存在しないジャンルである。ところがロードムービー以外でも物語が車での移動に依存しているような映画がある。 アッバス・キアロスタミ監督の『桜桃の味』(1997)はそうだ。この監督は同じ地域を車でぐるぐる移動することで物語を構成してしまった。新作『トスカーナの贋作』(2010)もこの形式を踏襲しているが、 これらに匹敵するのはヒッチコックの『めまい』(1958)か北野武の『HANA-BI』(1997)くらいであろう。『桜桃の味』には、観客が見た物語は現実にあったことの再現ではなくあくまでキャメラによって構成されたものであるということを、 イメージそのものが明らかにするようなラストシーンがある。こう書くと理屈っぽくなるが、ようするにこの物語は映画としてしか存在せず、またその限りでリアルであるということが、理屈によらずに理解できるようになっている。 はっとする終わり方である。映画イメージに関する明確な思想なしにはできないことだ。キアロスタミを見る楽しみはここにある。『トスカーナの贋作』のファーストシーンも楽しみである。 ある本の著者による講演会。キャメラは木製の大きな机の置かれた舞台を正面から撮る。司会者が前口上を述べている。時間になっても著者がやってこない。彼はすこし遅れて現れ、話し始める。 この間ワンカットである。キャメラは固定されている。これは講演会の記録フィルムではなく映画なのだということが理屈なしに分かる。すると今度は、キャメラをいつ逆構図に持っていくかが気になってくる。 真の映画的サスペンスである。この映画でこわれゆく女を演じたジュリエット・ビノシュがイヤリングをつけるシーンもすごい。鏡に向かうジュリエット・ビノシュを観客は正面から見るからである。 これは映画で、しかも映画だからリアルだと理屈なしに了解するシーンである。


トスカーナの贋作 Copie conforme

監督:アッバス・キアロスタミ
キャスト:ジュリエット・ビノシュ【彼女】
     ウィリアム・シメル【ジェームズ・ミラー】
2010年/フランス・イタリア/106分

イタリア、南トスカーナ地方の小さな村。講演に訪れたイギリスの作家がギャラリーを経営しているフランス人女性に出会う。芸術におけるオリジナルと贋作の問題について議論を交わす二人は、 カフェの女主人が彼らを夫婦だと勘違いしたのをきっかけに、あたかも長年連れ添った夫婦であるように装い、美しい秋のトスカーナをめぐる。


第十五話 最後の相米慎二

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 相米慎二監督が亡くなってもう十年になる。この機会にすべての作品を見直してみたいものである。その中で今回はまず『お引越し』(1993)に注目である。 桜田淳子と中井貴一の夫婦が別居のために引越しをしたところから始まる物語で、ひとり娘が田畑智子である。舞台が京都だから当然三人とも京都弁である。地元の田畑智子は別として、 桜田淳子と中井貴一はどちらも関西出身ではない。ところがこの二人の言葉はまぎれもなく京都人の言葉だった。私は十年以上京都に住んでいたことがあるからこの点は請合ってもよい。役者が口先で京都弁をなぞっているのではなく、 京都の人間がそこにいる、という感じなのだ。相米慎二の演技指導には定評があったが、これはそういう水準を超えていた。同じことが遺作の『風花』(2000)についてもいえる。 酒癖と女癖の悪さがもとで官庁を解雇された浅野忠信と、子供を実家に預けたまま東京で風俗嬢をする小泉今日子、つまずいた男とこわれゆく女の物語だ。この二人の存在がいかにもリアルだった。演技指導、などということですむ話ではない。 では、いったい何が起こっているのであろうか。矛盾した論理であることを承知であえていえば、浅野忠信は映画の中で現実に官庁を解雇され、小泉今日子は映画の中で現実に風俗嬢だった、そういうことである。同様に、中井貴一と桜田淳子は映画の中で現実に京都の人間だったのである。


お引越し

監督:相米慎二
キャスト:中井貴一【漆場ケンイチ】、桜田淳子【漆場ナズナ】
     田畑智子【漆場レンコ】
1993年/日本/124分

小学六年生の漆場レンコは、両親が離婚をし父ケンイチが家を出たため、母ナズナと二人暮らしとなった。 初めは両親の離婚がどうもピンとこなかったレンコだったが、新生活を始めようと契約書を作るナズナや、ケンイチとの間に挟まれ次第に心がざわついてくる。 揺れ動く11歳の少女の心を、瑞々しい映像で捉えた相米慎二の代表作。


第十四話 異色の西部劇を撮った男

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 西部劇では名前が重要である。彼がその男であると知れることで、物語を新しい局面にもっていくことができるからである。『ラスト・シューティスト』(ドン・シーゲル1976)では、本名のJ.B.ブックスを下宿屋の息子(ロン・ハワード)に知られたことから、 ジョン・ウェインが賞金稼ぎに狙われはじめる。異色の西部劇『大砂塵』(ニコラス・レイ1954)も名前の西部劇である。なにしろ原題がJOHNNY GUITAR である。ペギー・リーが歌った主題歌は原題のまま『ジョニー・ギター』だった。 このレコード(ドーナツ盤)も子供の頃私の家にあった。ファースト・カットは、丸腰でギターを担いで馬に乗る男(スターリング・ヘイドン)を俯瞰でとらえる。彼がジョニー・ギターである。 無論偽名であって、本名はジョニー・ローガン。名の通った拳銃使いである。いや、共演者のジョーン・クロフォードが映画の中で口にする言葉をそのまま使えば「拳銃狂(ガン・クレイジー)」である。 そう、これは拳銃で人生につまずいた男の物語なのである。拳銃でつまずいた男とその男を愛したがゆえにこわれてゆく女の物語、それが『大砂塵』である。 ところで、ジョニー・ギターなどというふざけた名前の男がじつはジョニー・ローガンであると知れたときの周囲の態度の変わり方は、やはり西部劇の醍醐味のひとつであろう。ニコラス・レイはこれを構図/逆構図ですばやく処理した。 私の大好きなカットである。


大砂塵 Johnny Guitar

監督:ニコラス・レイ
キャスト:ジョーン・クロフォード【ヴィエンナ】
     スターリング・ヘイドン【ジョニー・ギター】
1954年/アメリカ/110分

鉱山の町に流れ者のジョニー・ギターが現われ、昔の恋人だった酒場の主人ヴィエンナの元に身を寄せるが、彼女は無法者一味との関係が町の人々から嫌われ、一触即発の状態にあった…。 原題は放浪する主人公の名前だが、彼を巡る二人の女性が実質的な主人公であり、女性同士の決闘が公開当時話題となった。


第十三話 あこがれのロードムービー

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ロードムービーというジャンルがある。『都会のアリス』(ヴィム・ヴェンダース1973)、『センチメンタル・アドベンチャー』(クリント・イーストウッド1982)、『レインマン』(バリー・レヴィンソン1988)、『菊次郎の夏』(北野武1999)。どれも面白かった。 次はどこで何が起きるかという興味によって物語を展開できるという意味で、極めて映画的なジャンルである。ただし制約もある。恋愛を避けなければならない。恋愛が始まると移動が止まり、したがって映画そのものも終わってしまうからである。 旅の道連れがつねに子供であるのはそのためである。『レインマン』のダスティン・ホフマンは子供と同格の存在とみなしうる。ロードムービーにおいては恋愛が映画の終わりを意味している。 マーティン・スコセッシの『アリスの恋』(1974)もロードムービーである。アリス(エレン・バースティン)は専業主婦である。そして、その専業主婦という地位によってすでにこわれゆく女である。 ところが映画の始めに亭主が死んで、アリスは小学生の息子と故郷へ向かうことになる。テキサス州トゥーソンから、かつてセミ・プロの歌手として娘時代を送ったカリフォルニア州モントレーへ、 こわれゆく女であった女がおのれの存在を回復させる旅の物語だ。自分の過去へと還ることが開かれた未来へ向かうことであるという倒錯した時間が流れる。この流れを停止させ映画を終わらせるのがアリスの恋であった。


アリスの恋 Alice Doesn't Live Here Anymore

監督:マーティン・スコセッシ
キャスト:エレン・バースティン【アリス・ハイヤット】
     クリス・クリストファーソン【牧場主:デヴィッド】
1974年/アメリカ/113分

夫を事故で亡くしたアリスは、息子トミーを連れ故郷へと旅立つ。歌手になる夢を実現させようとするがなかなか難しく、やむなくウェイトレスをして旅費を稼ぐことに。やがてそんな彼女に好意を抱く牧場主デヴィッドが現れ…。 M・スコッセッシ日本初お目見えの作品。第47回アカデミー賞ではエレン・バースティンが主演女優賞を受賞した。


第十二話 心の場所

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

『イヴの総て』(ジョゼフ・マンキーウィッツ1950)は、無名の素人(アン・バクスター)が有名な舞台女優(ベティ・デイヴィス)を利用して成功していく物語だった。 まだ無名のマリリン・モンローも出演している。後にブレークする俳優が無名時代に出演していた映画は他にもある。しかし、そういう俳優が何人も出ていたという映画は稀であろう。 ロバート・ベントンがサリー・フィールド主演で撮った『プレイス・イン・ザ・ハート』(1984)はそういう稀な映画である。1930年代、大不況時代のテキサス、若い未亡人のサリー・フィールドは綿花の栽培で生計を立てる。 現場を預かる黒人労働者にダニー・グローバー、人気シリーズになった『リーサル・ウェポン』(リチャード・ドナー1987)はこの映画の三年後。 陰気な下宿人にジョン・マルコビッチ、『ザ・シークレット・サービス』(ウォルフガング・ピーターゼン1993)でイーストウッドと対決するのは九年後。 サリー・フィールドの姉の夫にエド・ハリス、『アポロ13』(ロン・ハワード1995)は十一年後になる。私はこの映画を封切の時に見に行った。サリー・フィールド以外は知らない役者だと思って見た。 またそう思うと地味な映画に見えた。警察官の夫が事故で亡くなり家のローンと二人の子供が残される。サリー・フィールドがこの困難に立ち向かうという話である。 これしきのことでこわれゆく女にならないのがサリー・フィールドなのであった。


プレイス・イン・ザ・ハート Places in the Heart

監督:ロバート・ベントン
キャスト:サリー・フィールド【エドナ・スポルディング】
     リンゼイ・クローズ【姉:マーガレット】
1984年/アメリカ/111分

1935年テキサス。夫を酔っぱらいの黒人に殺され、その日から一家の大黒柱となったエドナ。世間の冷たい目に耐えながら強く明るく生きる女性をフィールドが好演した。ネストール・アルメンドロスによる広大な綿畑を捉えたカメラも絶妙。 第57回アカデミー賞において『アマデウス』に破れ、受賞は脚本賞・主演女優賞受賞にとどまった。


第十一話 ニーノ・ロータの思い出

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 日本人好みのメロディというのがある。『鉄道員』(ピエトロ・ジェルミ1956)、『刑事』(同監督1959)、『ローマの恋』(ディノ・リージ1960)、『禁じられた恋の島』(ダミアノ・ダミアーニ1962)。 すべてカルロ・ルスティケッリによる作曲である。そういえばメロディがどれもよく似ている。『刑事』のクラウディア・カルディナーレは警察が追う男を匿っていた。だが別にこわれゆく女ではない。 ルスティケッリのメロディはこわれゆく女には向かない。どちらかといえば愚かな女によく合う。誠実な男を裏切り続ける『ローマの恋』のミレーヌ・ドモンジョのように。これと対照的に、 ニーノ・ロータのメロディはこわれゆく女によく合う。『太陽がいっぱい』(ルネ・クレマン1960)のマルジュ(マリー・ラフォレ)がギターを爪弾いてスキャットを口ずさむカットがある。 クローズ・アップだが口元だけフレームから外れている。アンリ・ドカエのキャメラだが、この均衡を逸した構図が示すのはこわれゆく女以外の何者でもない。『道』(フェデリコ・フェリーニ1954)のジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)は決して愚かな女ではない。 むしろこわれゆく女である。その証拠にニーノ・ロータのメロディがこの上なくよく合っている。子供の頃、私の家には『刑事』と『太陽がいっぱい』のレコード(いわゆるドーナツ盤)があった。 私が好んでかけていたのは『太陽がいっぱい』の方である。


太陽がいっぱい Plein soleil

監督:ルネ・クレマン
キャスト:アラン・ドロン【トム・リプレイ】
     モーリス・ロネ【フィリップ・グリーンリーフ】
1960年/フランス・イタリア/117分

悪友フィリップを、彼の父親の頼みで連れ戻しに来た貧乏な若者トム。親の金で遊び回る彼の金目当てにトムは行動を共にするが、フィリップの傍若無人さに怒り、これを殺害してしまう。 死体を海に捨てた後、トムはフィリップになりすまして彼の財産を手に入れようと画策し、計画を実行していく…


第十話 男はんは、あてらの敵や

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 女の映画と男の映画という区別がある。男の映画とは、例えば『リオ・ブラボー』(ハワード・ホークス、1959)であり、『スペース・カウボーイ』(クリント・イーストウッド、2000)である。 では、これに対し、女の映画とはどのようなものを指すのであろうか。恋愛ものは本来、男と女の映画である。『気狂いピエロ』(ジャン=リュック・ゴダール、1965)は男と女の映画である。 また、恋愛ものの中には見方によって女の映画にも男の映画にもなるものがある。スクリューボールがそれで、『赤ちゃん教育』(ハワード・ホークス、1939)はケーリー・グラントの映画でも、 キャサリン・ヘップバーンの映画でもありうる。ところが、女の映画でしかないような映画となると、なかなか難しい。『スペース・カウボーイ』が男の映画でしかなかったのと同じ意味で、女の映画でしかないような映画が存在するであろうか。 溝口健二の作品は、まさにこの意味において女の映画である。しかもこわれゆく女の映画ばかりである。女の映画は必然的にこわれゆく女の映画としてしか成立しないのであろうか。 おそらく、われわれの社会制度の中ではある種の必然であろう。溝口健二はそう考えていたように思われる。『祇園の姉妹』(1936)のラスト・シーンで、 山田五十鈴は「男はんちゅう男はんはみんなあてらの仇、憎い憎い敵や」と絶叫していた。脚本は依田義賢である。


祇園の姉妹

監督:溝口健二
キャスト:山田五十鈴【芸妓:おもちゃ】
     梅村蓉子【芸妓:梅吉】
1936年/日本/69分

古風な人情家の姉・梅吉と現代的打算的な妹・おもちゃは、京都の色町で働く芸妓姉妹であるが、ともに男にもてあそばれ、その犠牲になってゆく。 本来は90分以上の作品であるが、一部のフィルムが失われており、現在見ることの出来るバージョンは69分である。1956年に野村浩将監督、木暮実千代主演でリメイクされた。


第九話 マイルス・デイヴィスのエレベーター

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 『クレイマー、クレイマー』(ロバート・ベントン、1979)は日本でも大ヒットした映画である。公開当時、私は三回続けて見に行った憶えがある。いつ行っても満員だった。 ファースト・カットはメリル・ストリープのクローズ・アップで、それがベッドで寝ている男の子のカットにつながる。母親が子供を寝かしつけているシーンであることが分かる。 ただ、このカットのつなぎはちょっと変わっている。まるでフランス映画のようである。ロバート・ベントンは、フランソワ・トリュフォーが『野生の少年』(1970)で使ったヴィヴァルディの音楽をそのまま使っていたが、 ようするにこの映画はアメリカ人の監督がアメリカ人のスタッフで撮ったフランス映画なのだ。 撮影監督だけはスペイン出身のネストール・アルメンドロスだったが、 アルメンドロスは『野生の少年』の撮影監督である。メリル・ストリープのクローズ・アップは彼女がこわれゆく女であることを暗示していた。クローズ・アップには潜在的な崩壊を表現する効果がある。 その証拠に、ジャンヌ・モローでさえクローズ・アップされると崩壊の兆しが現れる。『死刑台のエレベーター』(ルイ・マル、1957)のファースト・カットはジャンヌ・モローのクローズ・アップである。 こういうふうに撮られたら女はもはやこわれてゆくほかない。撮影監督はアンリ・ドカエ。音楽はマイルス・デイヴィス。マイルスのトランペットは崩壊のメロディだった。


死刑台のエレベーター Ascenseur pour L'Echafaud

監督:ルイ・マル
キャスト:ジャンヌ・モロー【フロランス・カララ】
     モーリス・ロネ 【ジュリアン・タベルニエ】
1957年/フランス/92分

青年医師ジュリアンは、社長夫人フロランスと密会を重ねていた。二人は邪魔者となった社長を殺害する。 完全犯罪のはずが、ささやかなミスから歯車が狂いだす…。 25歳のルイ・マルが撮ったヌーベルバーグの草分け的作品。ジャズの帝王マイルス・デイヴィスが音楽を担当、印象的なトランペットを聞かせている。


第八話 YOU ONLY LIVE ONCE

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 ハリウッドはつねにハリウッド自身の物語を語ってきた。語られるのは栄光の日々だけではない。むしろ悲惨な物語もある。ビリー・ワイルダーの傑作『悲愁』(1979)もそのひとつであろう。 ガルボをモデルにしたことが明らかな、すでに引退した往年の大女優が自殺する。その自殺の真相をウィリアム・ホールデン演じるプロデューサーが探るというミステリー仕立てになっている。 まるで、『サンセット大通り』で銃弾に倒れた若き脚本家がじつは生き延びて、またしても往年の大女優をめぐるトラブルに巻き込まれていく物語を想像してしまう。この映画には、アカデミー協会会長の役でヘンリー・フォンダがワンシーンだけ出演していた。 ヘンリー・フォンダといえば、ミスタア・ロバーツのような明るい役が思い浮かぶ。しかし、じつは暗い役が見事に当たる役者である。ヒッチコックの『間違えられた男』(1956)がそうだ。ジョン・フォードの『怒りの葡萄』(1940)もある。 しかし極めつけはフリッツ・ラングの『暗黒街の弾痕』(1937)であろう。前科者がついに更生できず人生につまずくという点では『怒りの葡萄』のトム・ジョードにつながる役ともいえる。 これらの監督達はヘンリー・フォンダの暗さを的確に見抜いていたに違いない。『暗黒街の弾痕』の原題はYOU ONLY LIVE ONCE. 人生は二度生きられない。だからつまずきは怖いのだ。


暗黒街の弾痕 YOU ONLY LIVE ONCE

監督:フリッツ・ラング
キャスト:ヘンリー・フォンダ【エディ・テイラー】
     シルヴィア・シドニー 【ジョアン・グラハム】
1937年/アメリカ/86分

恋人ジョアンの尽力で、短期で出所しトラック運転手の職に就いたエディは、簡単な式を挙げ、新婚旅行に出かけるが、行く先々で様々な犯罪に巻き込まれその犯人に仕立てられてしまう…。霧や独房での光と影の表現、 S・シドニーのうるんだ瞳がわずかに喜びに震える瞬間の至福感、謎めいた銀行襲撃場面のスリル……。どこをとっても素晴らしい、ラング、アメリカ時代の最高傑作。


第七話 ウォルター・ヒューストンの雨

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 1930年代といえば、映画史においては世界的な規模でトーキーへの移行が行われた時期である。じつは、この出来事は映画史研究の謎になっている。先立つ1920年代は映画の真の黄金時代であった。 ハリウッド・スターの豪華な生活というイメージはこの時代のものである。サイレント映画は儲かって仕方がなかったのである。これに対し、 トーキーへの移行は映画館の設備等に膨大な投資を必要とするものであった。つまり、トーキーに切り替える必要は、興行的にはまったくなかった。なのに、トーキーへの移行は行われた。 この出来事に必然性を読み取ることは難しい。それゆえ、映画史研究の謎なのである。この出来事は技術的な水準での変革をももたらした。全く新しいカットが、ジョン・フォードやラウール・ウォルシュのような監督達によって創造されていった。 サマセット・モーム原作の『雨』(ルイス・マイルストン、1932)で、サディ・トンプソン(ジョーン・クロフォード)が登場するファースト・カットは脚である。ジョーン・クロフォードの脚だけ撮ったのである。 こういうカットはサイレントではありえない。また、ウォルター・ヒューストンの神父がジョーン・クロフォードの肉体的な魅力に敗北するカットは、 いっけんサイレントのようだが角度をつけて撮っていて、やはりトーキー固有のものである。女につまずく男の視覚表現も変わってきたのである。




監督:ルイス・マイルストン
キャスト:ジョーン・クロフォード【娼婦サディ】
     ウォルター・ヒューストン 【神父デビッドソン】
1932年/アメリカ/76分

雨が降り続く南太平洋の孤島に肉感的な娼婦・サディがやって来る。色めき立つ男たちをよそに、島の宣教師は更正を説くのだが、狂おしい太鼓のリズムと雨に心をかき乱され、 デビッドソンも他の男と同様、獣となってしまう。MGM専属時代のクロフォードにとっては数少ない他社出演でもあった。


第六話 イエリ・オッジ・ドマーニ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 私が勤務している鹿児島大学の正面にア・ドマーニという名前の本格的なリストランテがある。この店のランチはプラス260円でドルチェを付けることができる。私は一時期、このドルチェが食べたくて 週に一度はこの店に通っていたことがある。ア・ドマーニとは「また明日」というイタリア語の挨拶である。ついでにいえば、ドマーニが明日で、昨日がイエリ、今日はオッジである。したがって、 イエリ・オッジ・ドマーニ(ieri, oggi, domani)で『昨日・今日・明日』(ヴィットリオ・デ=シーカ、1963)である。いかにもイタリア映画らしいイタリア映画だった。 この映画はソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニの共演だが、この二人の共演で同じデ=シーカ監督の『あゝ結婚』(1964)とこの作品は、私の記憶の中ではつねにこんがらがってしまう。 夫婦の話を同じ役者、同じ監督で撮っているのだから、こんがらがって当然かもしれない。特にこの男女のタイプが似ている。こわれそうでこわれない女と、つまずきそうでつまずかない男なのだ。 イタリア映画らしいイタリア映画とは、そういう男女の物語を指している。私の好みとしても、マストロヤンニのような善良な色男につまずいてほしくない。イエリ・オッジ・ドマーニ、イエリ・オッジ・ドマーニ。初級イタリア語の教科書ではない。決して忘れてはいけないイタリア映画のタイトルである。


昨日・今日・明日

監督:ヴィットリオ・デ・シーカ
キャスト:ソフィア・ローレン【アデリーナ/アンナ/マーラ】
     マルチェロ・マストロヤンニ 【カルミーネ/レンゾ/ルスコーニ】
1963年/イタリア/119分

イタリアの3つの都市、ナポリ、ミラノ、ローマを舞台に、その街で生きる男女の恋愛模様を3話のオムニバス形式で描いた喜劇。 3話のエピソードともローレンとマストロヤンニが主役カップルを三様に演じ分けながら大いに楽しませてくれる。1964年度アカデミー外国語映画賞を受賞した。


第五話 イタリア映画のような…

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 初期の増村保造の作品にはどこかイタリア映画のような雰囲気がある。誰の視点から見ているのかが不明な風景のカット、人気のない街路に立つ女、近代的なマンションの一室での会話…。 これはロッセリーニで見た、あれはアントニオーニで見た、ということがときおりある。増村の「こわれゆく女」といえば『妻は告白する』(1961)であろうか。 登山の途中で夫のザイルを切ったことが不可抗力か故意の殺人かを争点にした裁判の被告となった妻(若尾文子)は、公判を重ねる中でこわれていく。若尾文子のような女がこわれていく、というのが私は何より好きである。 しかし、映画的に重要な点は、女がこわれていくことを視覚的にどう示すかである。構図/逆構図の使用法にその監督の真の個性が出る、というのは私の持論だが、増村についていえば、多数の人間の視線が一点に集中するカットを切り返し、 視線の対象である人物のカットにつなぐことによる感情的なショックこそ持ち味であろう。豪雨の日に、裁判の取材で親しくなった若い記者(川口浩)を若尾文子が訪ねてくるシーンがある。 編集室の記者たちの驚愕した眼差しのカットが切り返され、入口に立つ若尾文子のカットがくる。豪雨の日の外出に和服を着、その和服が上から下までずぶぬれになった恰好で川口浩をただ見つめている。 愕然とするカットである。こわれゆく女をよく描いたアントニオーニにもこういうカットはなかった。


妻は告白する

監督:増村保造
キャスト:若尾文子【滝川彩子】
     川口浩 【幸田修】
1961年/日本/91分

増村保造監督、若尾文子コンビによる愛の物語で、昭和36年芸術祭参加作品。法廷中心の「法廷ミステリ」のように見えるが、ミステリ色は薄い。 ひたすら、若尾文子演ずる、不幸な結婚をした女の心理にスポットが当てられており、犯行動機の背後に潜むひた向きな愛が浮き彫りになって行く様が描かれている。


第四話 フロール・エン・ラ・ソンブラ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画の中の人物が映画を見るシーンというのがある。『男と女のいる舗道』(ジャン=リュック・ゴダール、1962)で、 アンナ・カリーナが『裁かるゝジャンヌ』(カール・ドライエル、1928)を見て涙するシーンは有名である。 こういう場合、すでに存在する別の映画を映画の中で見るのが普通だが、 映画の中で見る映画をそのワンシーンだけ自分で撮ってしまったのはヴィクトル・エリセである。『エル・スール』(1982)には、 主演のオメロ・アントヌッチが映画を見るシーンがあるが、そのとき上映されている映画がそうなのである。 その映画にはポスターまであって、映画館に貼ってある。タイトルは、FLOR EN LA SOMBRA(日陰の花)。 主演はイレーネ・リオス(オーロール・クレマン)。楽屋で出番を待っている女を不意にかつての情夫が訪ねてくる。 俺は狂っている、だからお前を愛した、というような台詞を吐いてこの女を拳銃で撃つ、というシーンである。 女によって人生につまずいた男の物語だ。それによって女は死ぬ。この映画を見た後で、オメロ・アントヌッチはオーロール・クレマンに手紙を書く。 ここに秘密めいた過去が暗示される。そしてそれを娘に気づかれたことが、この父親の死を呼びこんでいくことになる。凝った物語である。 フロール・エン・ラ・ソンブラ、日陰の花。『エル・スール』を見なければ決して見ることのできない映画である。


エル・スール EL SUR

監督:ヴィクトル・エリセ
キャスト:オメロ・アントヌッティ【父:アグスティン・アレナス】
     ソンソレス・アラングーレン/イシアル・ボリャイン 【娘:エストレリャ 8歳/15歳】
1983年/スペイン・フランス/95分

生まれ故郷アンダルシアを捨てて活きる父の、南=エル・スールへの断ちがたい想いを、 娘の目を通じて描く。冒頭、窓の外が明るんでいく光の場面、8歳のエストレリャが荒野で父と佇む場面や、カフェにいる父を窓の外から見つめる場面、15歳に成長するワンシーンの見事な切り替わりなど、 息をのむ映像の美しさで物語が展開する。


第三話 テキサス州パリ

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 サイレント作品『散り行く花』(D.W.グリフィス、1919)から最新作『ヒア・アフター』(クリント・イーストウッド、2011)にいたるまで、 「こわれゆく女」と「つまずいた男」は、ほとんど1世紀にわたって映画に物語を提供してきた。 これらの女と男が出会ってしまうことが物語そのものを作り上げるのである。この物語にはいくつかのヴァリエーションがある。 中でも、その女に出会ったこと自体がつまずきであるというパターンが最も物語にしやすく、 また本数も多いであろう。『深夜の告白』(ビリー・ワイルダー、1944)はこのパターンの代表作である。 この場合、男が人生につまずくわけだが、女の方には別にこわれていく必然性はない。 ところがその逆、つまり女だけがこわれていくというパターンはずっと少なくなるはずである。 男のつまずきは映画として分かりやすいが、女がこわれていく過程は曖昧で、映画として分かりにくいからであろう。 ジーナ・ローランズの『こわれゆく女』はまさにこのパターンの作品である。 では、男が曖昧につまずき、かつ女もこわれてゆく映画となるといったいどうなるのであろうか。 物語が成立するのであろうか。『パリ、テキサス』(ヴィム・ヴェンダース、1984)はそのような難しいテーマを扱った作品である。 パリ、テキサスすなわちテキサス州パリ。米国テキサス州には本当にその名の土地がある。


パリ、テキサス PARIS,TEXAS

監督:ヴィム・ヴェンダース
キャスト:ハリー・ディーン・スタントン【トラヴィス・ヘンダースン】
     ハンター・カーソン【ハンター・ヘンダースン】
1984年/西独・仏/147分

1984年製作、ヴィム・ヴェンダース監督の西ドイツ・フランス合作映画。ヴェンダースの代表作のひとつであり、 テキサスを一人放浪していた男の妻子との再会と別れを描いたロードムービーの金字塔である。 第37回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。原作は脚本のサム・シェパードによるエッセイ『モーテル・クロニクルズ』。


第二話 グロリアという名の女

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

  最近はそうでもないが、かつては映画スターが芸名を使うのはごく普通のことだった。 いうまでもなく、ジョン・ウェインは本名ではない。このところ再評価への動きが出てきたジョン・ガーフィールドも本名ではなかった。 ちなみに、わが高倉健さんも本名ではない。ウィリアム・ウェルマン会心の作『スタア誕生』(1937)には、 新人女優(ジャネット・ゲイナー)の芸名を宣伝部長が思いつくシーンがちゃんと用意されていた。 ついた名前はヴィッキー・レスターで、どう見ても芸名である。スターにとって名前が重要とみなされていた映画史的な証言である。 ところで、私の大好きなジーナ・ローランズ主演の『グロリア』(ジョン・カサヴェテス、1980)には、名前に関する映画史的な遊びがある。 イタリア系のマフィアとつきあいのあるこの独身女のフルネームが、グロリア・スヴェンソンだというのである。 グロリア・スワンソンのスワンソンをちょっと北欧風に変えただけだが、これでこの名前が偽名であるということが観客には分かる。 つまり、そういう素性の女という設定である。ジーナ・ローランズは一時期「こわれゆく女」ばかり演じていたことがある。 『フェイシズ』(ジョン・カサヴェテス、1968)も、『オープニング・ナイト』(同監督、1978)も、 そして『こわれゆく女』(同監督、1974)もそうである。こわれゆく女達の映画史という私の着想は、もちろんこの作品から来ている。


グロリア Gloria

監督:ジョン・カサヴェテス
キャスト:ジーナ・ローランズ【グロリア・スヴェンソン】
     ジョン・アダムズ【フィル・ドーン】
1980年/アメリカ/123分

マフィアを裏切ったために殺されたプエルトリコ人一家。 唯一の生き残りであった末っ子のフィルは、父親によって同じアパートメントの同じフロアに住む中年女グロリアに託された。 子供嫌いのグロリアと生意気なフィルは反発しあっていたが、マフィアから逃げ回るうち、いつしか絆が生まれてゆく。 ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞。


第一話 ノーマ・デズモンドの威光

文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)

 映画史を論じる視点についてあれこれ思案しているうちに、はたと気づいたことがある。
サイレント時代から今日まで、映画に繰返し登場する人物の造形に「こわれゆく女」と「つまずいた男」が非常に多いという点である。 自分が見た映画も見ていない映画も含めて、さっそく映画史をたどってみると、こういう女達、男達がいくらでも出てくるので驚いてしまった。 そこで、この点が映画にとって何を意味するかを具体的に考えてみることにした。 映画とはようするに女と男がいかに出会うかなのだから、この企画には見込みがありそうである。 思い通りにならない現実の中でこわれていく女達、些細なきっかけで人生につまずいた男達、 映画の物語を展開させる上では恰好の素材であろう。ひとつの物語の中でこれらの女と男が出会うという物語はよくある。 『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー、1950)では、 サイレント時代の大女優ノーマ・デズモンドがビヴァリー・ヒルズの朽ち果てた豪邸で決してやってこないカムバックの機会を夢見ている。 そこへ売れない脚本家ジョーが迷い込んでくる。 若きウィリアム・ホールデンが、最後には銃弾に倒れるこのつまずいた男を演じた。 こわれゆく往年の大女優を演じたのはグロリア・スワンソンだった。 しかし、この物語にはじつはもうひとり、つまずいた男が存在していたのである。 無論、その名を無闇に口にすることのできる人物ではない。


サンセット大通り Sunset Boulevard

監督:ビリー・ワイルダー
キャスト:グロリア・スワンソン【ノーマ・デズモンド】
     ウィリアム・ホールデン【ジョー・ギリス】
1950年/アメリカ/110分

サイレント映画時代の栄光を忘れられない往年の大女優の妄執と、悲劇を描いたフィルム・ノワール。 同年のアカデミー賞11部門にノミネートされたが、『イヴの総て』相手に結局3部門での受賞に留まった。 アメリカ映画を代表する傑作であり、1989年に創立されたアメリカ国立フィルム登録簿に登録された最初の映画中の1本である。