文:しばたけんじ
(鹿児島大学教員/哲学)
映画史を論じる視点についてあれこれ思案しているうちに、はたと気づいたことがある。
サイレント時代から今日まで、映画に繰返し登場する人物の造形に「こわれゆく女」と「つまずいた男」が非常に多いという点である。
自分が見た映画も見ていない映画も含めて、さっそく映画史をたどってみると、こういう女達、男達がいくらでも出てくるので驚いてしまった。
そこで、この点が映画にとって何を意味するかを具体的に考えてみることにした。
映画とはようするに女と男がいかに出会うかなのだから、この企画には見込みがありそうである。
思い通りにならない現実の中でこわれていく女達、些細なきっかけで人生につまずいた男達、
映画の物語を展開させる上では恰好の素材であろう。ひとつの物語の中でこれらの女と男が出会うという物語はよくある。
『サンセット大通り』(ビリー・ワイルダー、1950)では、
サイレント時代の大女優ノーマ・デズモンドがビヴァリー・ヒルズの朽ち果てた豪邸で決してやってこないカムバックの機会を夢見ている。
そこへ売れない脚本家ジョーが迷い込んでくる。
若きウィリアム・ホールデンが、最後には銃弾に倒れるこのつまずいた男を演じた。
こわれゆく往年の大女優を演じたのはグロリア・スワンソンだった。
しかし、この物語にはじつはもうひとり、つまずいた男が存在していたのである。
無論、その名を無闇に口にすることのできる人物ではない。